早いものでもう9月。来週の14日土曜日、朝日カルチャーセンター新宿で、「ヴィスコンティの魅力、映画をめぐる男たち(2)」と題して、ジャン・ルノワールとの出会いをお話しします。それはイタリアのヴィスコンティとフランスのルノワールの、国境を越えた出会い。その出会いからヴィスコンティは映画を志すことになる。どんなふうにこの出会いが起こったのか。そして、そこからどんなふうに展開してゆくのか、ぼくはずっと気になっていたのですが、今回はぼくなりにわかってきたことをお話ししようと思います。
考えてみれば、映画という芸術はそもそも「越境的」なんですね。ちょうどヴェネツィア映画祭の期間中ですが、イタリア語では「Mostra internazionale d'arte cinematografica」。訳せば「映画芸術のインターナショナルな展覧会」。インターナショナル、つまり国際的というのは、「ネイション」(領域民族国家)の「インター」(間)ということですから、これも「越境的」なわけです。ヴィスコンティの映画も、とりわけ戦後の『夏の嵐』(1954)あたりからインターナショナルなものになります。内容もキャストも製作資金も、国際的な規模になってきます。
それをコスモポリタンなものということもできるかもしれません。ヴィスコンティは貴族ですから、そもそもコスモポリタン的なものがあります。貴族の世界はそもそも最初から国を越えており、数カ国語を話すのがあたり前で、ヨーロッパ中の宮廷にちらばる親戚縁者と結びついているわけですから、最初からコスモポリタンなわけです。
そんな古いヨーロッパ的なコスモポリタニズムが、ファシズムの起源となるナショナリズムに対抗するインターナショナリズムと出会う。それがもしかすると、ヴィスコンティとルノワールの出会いなのかもしれません。
~ジャン・ルノワールとの出会い~
ルキーノ・ヴィスコンティの魅力を掘り下げてゆく講座です。 今回からはヴィスコンティの作品に関わった「男たち」をとりあげ、出会いとその影響を考えます。
今回はジャン・ルノワール(Jean Renoir、1894 - 1979)との出会いを中心にお話しします。有名な印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841 - 1919)の次男として生まれたジャン・ルノワールですが、第一次対戦後に映画作りを始めると、1930年代のフランス映画を代表する監督となります。ヴィスコンティはそんなルノワールの『トニ』(1935)や『ピクニック』(1936)の撮影現場に入り、映画芸術の可能性を見出し、そこに人生を賭けることを決意します。
その当時のフランス映画とはどんなものだったのか。ヴィスコンティはどんな影響を受けたのか、ご一緒に考えてみたいと思います。(講師記)
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