すっかり告知が滞ってますが、7月15日には日伊協会で「映画で開くイタリア」シリーズの第2回【ヴィットリオ・デ・シーカ:喜劇俳優はいかにして名監督となるか?】を無事終了しました。
第一回のロッセリーニに続き、戦後のイタリア映画を代表する映画監督デ・シーカを取り上げ、まずはその経歴を追いかけました。「悲惨で貴族的だった」という子供の頃の家庭環境から、大衆演劇の世界に飛び込み、ラジオのコントなどで有名になり、1930年代には映画スターとしての地位を確立してゆきます。その彼が監督となったのは、1940年代、戦争のさなかですね。ある映画での演出が気に入らず、自分で監督しようと思い立ちます。そして『Rose scarlatte (緋色の薔薇)』(1940)で監督デビュー(ただし共同監督)、続いて『Maddalena: Zero in condotta(素行零点のマッダレーナ)』 で成功をすると、日本語版DVDで視聴可能な『金曜日のテレーザ』(1941)や『修道院のガリバルディ兵』(1942)などを発表することになるのです。
しかし、戦火が激しくなるなか、デ・シーカは求められる喜劇路線に飽きたらなくなってきます。そこでチェーザレ・ザヴァッティーニと組んで、小市民を批判する作品に挑戦することになります。それが『子どもたちは見ている』(1943)ですね。この作品、ファシズム時代の映画としては異例なことに「自殺」と「姦通」が取り上げられることになります。ここから戦後の『靴みがき』や『自転車泥棒』に続くネオレアリズモには、ほんの数歩なのです。
もうひとつ、忘れてはならないのが『Porta del cielo (天国の門)』(1944)という作品。この作品こそが、ある意味デ・シーカの命を救い、さらには多くのユダヤ人たちの命を救うことになるのです。というのも、当時のデ・シーカはヴェネツィアへ来るように催促されていたのです。ヴェネツィアには新しい映画の中心がチネチッタの代わりとなる撮影所が作られていました。それはドイツ占領下のイタリアに誕生したサロ共和国(イタリア社会共和国)の撮影所です。そこに行くことはムッソリーニとファシストたちと運命を共にすることを意味していました。このころ、フェリーニは隠れます。ヴィスコンティは抵抗運動に関わり逮捕されています。デ・シーカはどうしたか。この『Porta del cielo』を撮影していたのです。
この映画は、ヴァチカンが製作を手がけた作品で、ロレート巡礼を描くものでした。戦争中ですからロレートまで行くことはできません。そこでデ・シーカと撮影スタッフは、ローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂に閉じこもり、外部との接触を絶って撮影を続けます。そのころのローマではユダヤ人が一斉に収容所送りとなる事件が起こっていました。ですから、多くのユダヤ人エキストラを大聖堂中に避難させ、エキストラとして撮影に参加させたのです。この映画の目的は「終わらないこと」。ローマが解放されるまで撮り続ければ、多くの人々が救われるというわけです。どこまでが意図したものかはわかりませんが、実のところ、結果的にはデ・シーカはうまくヴェネツィアに行かずにすみ、多くのユダヤ人が救われたのだといいます。同じことをデ・シーカは『ミラノの奇跡』でも行いますが、それはまた別のところで。
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