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ヴィスコンティの『家族の肖像』

更新日:2019年12月9日

10月5日の土曜日、ヴィスコンティの『家族の肖像』を紹介してきました。日伊協会の「日伊文化交流 秋のフェスタ 2019」が「ヴィスコンティに染まる1日」ということで、食材やらワインやらに加えて、ヴィスコンティの映画も上映したというわけです。

上映前の20分ぐらいをいただいてお話ししたので、細かいことには触れられませんでしたが、今回見直してみて、いろいろ感じるところがありました。備忘のために Filmarks に短評を記したので、以下、若干訂正して引用しておきますね。



* * * このフェスタでの上映はイタリア語で日本語字幕付きの上映。もちろん、イタリアフェスだからそれでよいのだけれど、この映画はもしかすると英語でもよいのかなと思えてきた。というのも、リエッタを演じるクラウディア・マルサーニが選ばれた理由が英語が堪能だからということがある。彼女は国連職員の娘で、生まれはケニア、それからタイ、モロッコ、リビアと転々としたコスモポリタ。だから、ランカスターとリエッタのやりとりは、もしかすると英語が聞くのも悪くないのかもしれない。そう思ったのだ。


もうひとつ、この映画を見直しながら気づいたのは、映画の鑑賞の仕方において大事なのは、実在論ではなく様態論がってこと。つまり、ヴィスコンティの映画だから、なにかヴィスコンティ的な実在があるはずだというのではく、ヴィスコンティという人が映画を撮るときのまわりの様々な状況が、ヴィスコンティをして特定の映画へと向かわせたのだということ。つまり、『家族の肖像』という映画の成立事情ほど、映画の成立の様態を示してくれるものはないのではないか。そう思ったのだ。


それはこういうことだ。1972年7月にヴィスコンティは脳卒中で倒れる。左半身麻痺になりながら、車椅子で動けるまでのリハビリをこなしたのは、撮影を終えたばかりの『ルートヴィッヒ』を完成させるためであり、さらには自らの人生を生きるため。なにしろ、翌年の5月にはハロルド・ピンターの『昔の日々』(Old times / Tanto tempo fa)の舞台を発表し、6月にはスポレート音楽祭で『マノン・レスコー』を演出している。


もちろん映画の準備も進めていた。トーマス・マンの『魔の山』も考えたらしいけれど、さすがに今の状態では無理。では、どんな映画なら取れるのか。そこで、『若者のすべて』以来、ずっとヴィスコンティの作品に関わってきたエンリコ・メディオーリが、こんなアイデアを出す。自分のアパルタメントは上下2階のメゾネットで、いっぽうは昔ながらのスタイルで、いっぽうはモダーンなスタイル。そういうところで映画を撮れないだろうかというのだ。

なるほど、それならスタジオにセットを作ればよいだけだ。舞台はローマ。アパルタメントから見えるローマの風景は、じつのところハリボテなのだけれど、バロック的な要素をあえて誇張するように作られた。ローマよりもローマ的な風景が作られたというわけだ。


そんな物語を作るにあたり、メディオーリと、ヴィスコンティのもうひとりの盟友スーゾ・チェッキ・ダミーコは、マリオ・プラーツの『カンヴァセーション・ピースィーズ』を参照することになる。これは1971年に出版されたばかりの美術書で、18世紀に人気を博し、写真が発明された19世紀に忘れられてゆく「カンヴァセーション・ピース」(家族や何人かが画面のなかで言葉を交わしている情景を描いた作品)というジャンルを研究したものだ。


ヴィスコンティの脚本家たちは、このマリオ・プラーツの「カンヴァセーション・ピース」の研究を肉付けしてゆく。そして、写真の登場によって失われたジャンルを収集し、そのひとつひとつに小説のような濃厚なコメントをほどこしてゆくプラーツという絵画史家・評論家の姿から、あのバート・ランカスターの演じる「教授」が造形されてゆくのだ。


この「教授」のドラマの詳細を立ち上げるために、ヴィスコンティ組は、プラーツのその後の著作『Il patto del serpente (蛇の契約)』(1972)をも参照する。そしてそのなかに見出される「聡明な精神が、自分自身に耳を傾けるなかで、推敲し校閲したフレーズ」を「教授」の言葉として、一方で「粗野で汚らわしい俗悪な言葉」をビアンカ夫人の一族へと当てはめていったというのだ。


それだけではない。それ以前の著作、たとえば『La casa della vita (人生の家)』(1958)のような自伝的な作品をも下敷きにしたという。例えば隠し部屋のエピソードなどはそのなかにあるのだが、それを映画に実に有効に取り込んでゆくことになる。

同時代の要素としてとりこまれたのは、プラーツだけではない。その平穏な感傷的な生活にヴィスコンティ組がぶつけてくるのは20世紀最大の詩人のひとりといわれるW.H.オーデンの臨終のベッドで記したとされる1973年の “The entertaiment of the senses” なのだ。


When you see a fair form, chase it

and if possible embrace it

be it a girl or a boy.

Don’t be blushful, be brash, be fresh.

Life is short, so enjoy

whatever contact your flesh

may at the moment crave.

There is no sex-life in the grave.


なんともすさまじい執念がこぼれてくる荒々しい詩。それは卒中に倒れながらも、がむしゃらなまでに前向きであろうとするヴィスコンティの姿に重なってくる。この詩の引用は、あの若々しいリエッタが「教授」にぶつけることになるのだが、それはある意味、ヴィスコンティが自らを叱咤するものであったのかもしれない。


なんといってもヴィスコンティというひとは、車椅子での生活になったとき、あるインタビューのなかで、こんなふうに情熱を語る人だったのだから。


「わたしは、すべてに立ち向かいたいのですよ、すべてにね。それも情熱を込めて。だってわたしたちが生きているのは、そのためじゃないですか。それまではただ燃えるだけですよ。やがて死が人生の最後にその仕事を成し遂げて、わたしたちを灰にしてしまうまでは」

(Io voglio affrontare tutto, tutto. Con passione, sa. E d'altronde siamo qui per questo: per bruciare finché la morte, che è l'ultimo atto della vita, non completi l'opera trasformandoci in cenere...)

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